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草間彌生「ミラールーム(かぼちゃ)」 画像はこちらからお借りしました。 |
ネットを調べてみるとやはり「ぶつぶつと」いうと草間彌生は例として挙げられたりしてます。
彼女自身も自分の幻覚である水玉の恐怖から逃れるために自らその水玉を描いて、その行為が自分にとって捌け口(?)であったから、今でもそのテイストは変わっていない、と私は認識してます。
彼女にとっても幻覚・すべてが水玉で覆われてしまう世界は恐ろしかったんですよね。
ということは、彼女は自分が制作した作品を怖いとは思わないのでしょうか。。
気になりますが、自分の作品は愛着を持ってるからそうは思いませんかね。
彼女の作品は視覚的に強烈というか刺激的なので好き嫌いはハッキリあるでしょう。
私も最初は「うわぁこんな人が日本人にいたんだ。しかも結構お年もとられているし…パワフルな人だな。作者も作品も強烈だな。」っといった印象でした。
彼女の代表作というか、よくカボチャがモチーフにされますが
実際に直島の黄色に黒の点々を纏ったカボチャ見て、アイコン的な感じと言いますか
以前よりも彼女の作品を見ることに抵抗感はなくなりました。
その経験も踏まえて、考えたことは強烈なイメージなものでも「慣れ」はあって
「慣れるもの」「慣れないもの」2パターンあるのだな、と気づきました。
私の中で彼女の作品は「慣れるもの」に属していたので、癖のある人で派手でいいなぁっといった感じで、以前のような戦くような気持ちはなくなっていたのです。
やはりどうしても慣れないもの、というのはあります。
よくネットでグロいと有名な花が落ちた後の蓮や背中に卵を産みつけるカエルなど…
(思い出して気分を悪くされた方はすみません。。知らない方は超閲覧注意なので検索はおすすめしません。)
そういうものは拒絶感になるのかなぁと思います。
個人差があるので、一概には言えませんが全部大丈夫っという方はそうそういないと思います。
集合を調べていると、
太宰治の短編小説集きりぎりす内に「皮膚と心」という短い小説があって
それの話も書いてから、整列・集合したものを見た際の違いとか相似点とかを軽くまとめて書こうと思います。
まとまりがなくなってしまいましたが、今回は草間彌生の例を挙げただけですが、次回に続きます。