豆でいいんじゃない?(1)

色んな整列

11/28(Wed)

先週は欠席。
卒業制作提出日は12/12(Wed)なので、残す授業はあと今日を入れて三回。
提出まであと14日。 一日6h制作するとしても84時間。うぅ。。
もう来週提出できる勢いでやるしかないです。

授業は展示方法や部屋割りについての話と、個人の制作進行状況について。

本日最終的な方向性が決まりましたが、今日私が迷っている過程も記そうと思います。
私は今日最終試作になるであろう物をいくつか持っていきました。

並べたのは、黒ごま・小豆・そらまめ・輪ゴム・みかん・小エビ。
写真だと色飛びして合成っぽいですがちゃんと1つ1つ並べてあります。
展示は整列・集合・乱雑を表した実物展示+それら3つのA1サイズポスターを作ろうと考えてました。

わたしが何をしたいかを再々くらいでまとめたメモ。
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何に気づいて発見したか
  ①人間が生活する世界には、整列しているものが多く、整頓された心地よさもある反面、完璧すぎると統制された不気味さを覚える。(人工物より も自然物や生き物が並べられると、なお強烈)

  ②自然界に存在する集合体や密集しているものは、私たちの想像を超え るようなものが存在し、それを見ると本能的に恐ろしく感じ拒絶感を抱く (大量であることが重要となる)
  ③自然物であれ人工物であれ、意図が見えなく乱雑に配置されている物 は、個々の関係性が見えないと何も感じるものはない。
  ④私たちは整列や集合を普段意識しないだけで、意識しだすともう‘そ れら’の存在を無視するのは不可能に近い状況になることに気づいてない だけかもしれない。

何を表現したいか
  整列を無意識に選ぶことは本能的に行っており、どこもかしこも整列された世界を自ら作り出しているということに気づいてもらう。また、整列 や集合といった、今まで感じなかった世界を垣間見せる。

どう表現するか
  意図的に規則性を持たせ、自然物を並べる。 比較のために、拒絶感を抱くような集合、乱雑な配置 も制作。 
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これでいける!おっしゃーっと思いましたが問題点が発生。
色んな物を並べるけども、なぜその素材を選んだのかが、言えない。(ごにょごにょなってしまう)

そのとき先生から
 色んな素材じゃなくて、小豆だけにしぼっちゃえば。もうテーマ豆でいいんじゃない?

と、言葉が降ってきました。
わたしも正直、これらを並べているとき、もう豆でいいじゃないかって思っていました。


そこで不必要な素材を排除。
豆だけにしぼって、テーブルに並べてみる。
すると 乱雑から整列、集合へのグラデーションができる。これはより不快を感じやすいグラデーションじゃないか。


とピーンとひらめきました。 つづく


2012年11月28日水曜日 Comments Off

意識の焦点

いちごの種をじぃっとみる

苺 ー物のゲシュタルト崩壊ー

かわいいものとしてよく女子向けのモチーフに使われるけども、
苺はよくよく見ると不気味だ。

種がびっしりとへばり付いていて、じっと見ていると、苺のかわいらしいイメージが脳内で少しずつズレていく感覚に襲われる。それを感じた時、イメージの崩壊が起きる。同時に人々はゾクゾクしたり、苺が一瞬怪奇で異常なものに見えてくる。
けれども、ふと自分の意識が本来の苺のイメージに戻ってくると、何の変哲もない、普通の苺という果物に戻るのである。
これと同じ現象はヒマワリでも感じ取ることができると思う。

同じような情報を繰り返すうちに物の区別ができなくなるのはすごく面白い。
そう、ある時一瞬感じるっていうのも気になる。

これをどう人にわかりやすく、かつ、魅力的に形に落とし込めるだろうか。


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先生も言っていたけど、
・「対象(自分が言いたいことや物 ex.整列や集合)をあらゆる情報の文脈から外すことで人為的にその情報を脱ぎとることが可能になる」
・「まるで初めて見るもののように、既知なる対象物を新鮮に輝かせてみせること。
同じ経験を持つ、人類共通の深い所に訴えかけてくるようなものを作ろう」


それは、いったいどう表現したらいいんだ。。。
アイディアはある一定のジャンプが必要って言われたけど。
そのジャンプの着地点が決まらないです。。


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この人の苺の種をごまに置き換えてるの、すごい気持ち悪くていい。

2012年11月13日火曜日 Comments Off

集合と太宰治の「皮膚と心」

太宰治の短編小説「きりぎりす」の中の「皮膚と心」を読みました。

ネタバレすると
主人公の女は、ある日胸に吹き出物ができて悩んでしまう。その女はぶつぶつが大嫌いなのである。なぜかというと「痛み」と「くすぐったさ」と「痒さ」の中で一番嫌なことは「痒み」であると考えている。痛みやくすぐったさは自分の限界を超えてしまうと、もう失神してしまうだろう。しかしながら、痒みには他の2つにはない「痒さの波」がある。だから恐ろしい。ゆえに皮膚のぶつぶつも、この世の色んなぶつぶつも大嫌いなのである。皮膚にはいっそう気にしていたが、薬を塗って一晩寝ると、ぶつぶつは全身に広がっていた。
こんな醜い自分を夫は嫌うだろうと、着物で隠そうとするが、結局バレて病院に連れて行かれる。

病院の待ち時間、女はふと考える。夫は初婚ではなかったので、もしかしたら前の女から性病を移されたのではないか、と不安になったり裏切られたと憎い感情がこみ上げてきたりする。
結局ただの食べ物アレルギーで、注射を打つとすっかり治ってしまった。というお話。

私は心理描写のことは全部端折ってるので、その辺の素晴らしい感想はこちら様のブログをどうぞ。

そのぶつぶつが嫌だと主人公が語っている場面で、彼女はこの世の様々なぶつぶつの例を挙げています。

以下抜粋 『きりぎりす』(新潮文庫)太宰治(著)より
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いちど先生に連れられて、クラス全部で、上野の科学博物館へ行ったことがございますけれど、たしか三階の標本室で、私は、きゃっと悲鳴を挙げ、くやしく、わんわん泣いてしまいました。皮膚に寄生する虫の標本が、かにくらいの大きさに模型されて、ずらりと棚に並んで、飾られてあって、ばか! と大声で叫んで棍棒こんぼうもって滅茶苦茶に粉砕したい気持でございました。それから三日も、私は寝ぐるしく、なんだか痒く、ごはんもおいしくございませんでした。私は、菊の花さえきらいなのです。小さい花弁がうじゃうじゃして、まるで何かみたい。樹木の幹の、でこぼこしているのを見ても、ぞっとして全身むず痒くなります。筋子なぞを、平気でたべる人の気が知れない。牡蠣かきの貝殻。かぼちゃの皮。砂利道。虫食った葉。とさか。胡麻ごま。絞り染。たこの脚。茶殻。えびはちの巣。いちごあり。蓮の実。はえ。うろこ。みんな、きらい。ふり仮名も、きらい。小さい仮名は、しらみみたい。グミの実、桑の実、どっちもきらい。お月さまの拡大写真を見て、吐きそうになったことがあります。刺繍ししゅうでも、図柄に依っては、とても我慢できなくなるものがあります。そんなに皮膚のやまいを嫌っているので、自然と用心深く、いままで、ほとんど吹出物の経験なぞ無かったのです。
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なんとも分かるような気もする。
私は赤血球の写真などを見るとゾクゾクします。
けど、この主人公は相当ぶつぶつ、というか点々と言うか、そういう集合体に対しても拒絶感アンテナが異常に敏感なのだと思います。

ふりがなも嫌いってのは面白いと思いましたw

草間弥生と太宰治の小説、2つ例を挙げたので、次にまとめます。

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集合と草間彌生

草間彌生「ミラールーム(かぼちゃ)」
画像はこちらからお借りしました。

集合体恐怖症の人たちが、いわゆる「ぶつぶつ」に対する恐怖っていうのは人それぞれ違うみたいです。例えばいちごのぶつぶつは気持ち悪いけど、水玉模様は大丈夫とか。

ネットを調べてみるとやはり「ぶつぶつと」いうと草間彌生は例として挙げられたりしてます。

彼女自身も自分の幻覚である水玉の恐怖から逃れるために自らその水玉を描いて、その行為が自分にとって捌け口(?)であったから、今でもそのテイストは変わっていない、と私は認識してます。
彼女にとっても幻覚・すべてが水玉で覆われてしまう世界は恐ろしかったんですよね。
ということは、彼女は自分が制作した作品を怖いとは思わないのでしょうか。。
気になりますが、自分の作品は愛着を持ってるからそうは思いませんかね。


彼女の作品は視覚的に強烈というか刺激的なので好き嫌いはハッキリあるでしょう。
私も最初は「うわぁこんな人が日本人にいたんだ。しかも結構お年もとられているし…パワフルな人だな。作者も作品も強烈だな。」っといった印象でした。

彼女の代表作というか、よくカボチャがモチーフにされますが
実際に直島の黄色に黒の点々を纏ったカボチャ見て、アイコン的な感じと言いますか
以前よりも彼女の作品を見ることに抵抗感はなくなりました。

その経験も踏まえて、考えたことは強烈なイメージなものでも「慣れ」はあって
「慣れるもの」「慣れないもの」2パターンあるのだな、と気づきました。

私の中で彼女の作品は「慣れるもの」に属していたので、癖のある人で派手でいいなぁっといった感じで、以前のような戦くような気持ちはなくなっていたのです。

やはりどうしても慣れないもの、というのはあります。
よくネットでグロいと有名な花が落ちた後の蓮や背中に卵を産みつけるカエルなど…
(思い出して気分を悪くされた方はすみません。。知らない方は超閲覧注意なので検索はおすすめしません。)

そういうものは拒絶感になるのかなぁと思います。
個人差があるので、一概には言えませんが全部大丈夫っという方はそうそういないと思います。

集合を調べていると、
太宰治の短編小説集きりぎりす内に「皮膚と心」という短い小説があって
それの話も書いてから、整列・集合したものを見た際の違いとか相似点とかを軽くまとめて書こうと思います。
まとまりがなくなってしまいましたが、今回は草間彌生の例を挙げただけですが、次回に続きます。

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整列から集合へ

夏期休暇前の計画表提出で
「人間の生活する世界は様々な整列が溢れている。それも無意識的に整列を選んでいる。それは少し恐ろしいことなのではないか。私たちが気づいてなかった整列世界を気づかせよう」と、自分が何を発見して、何を伝えたいのかが決まりましたが、

どのように伝えたいのか(アウトプットの形)が決まらず、行き詰まっている時、
「集合体恐怖症」という言葉に出会いました。

集合体恐怖症(トライプロフォビア)とは

文字通り、集合体に対する恐怖感を感じてしまう、というものです。
例えばパスタの束、カエルの卵、ホットケーキを焼いたときの気泡などに対する恐怖。
それらを見ていると、人間は天然痘などの皮膚病を連想してしまうらしく、そうすることで本能的に危険を回避しているらしいのです。詳しくはこちら
確かに、私もかえるの卵を見ているとむず痒くなって「うわ、気持ち悪い」という感覚を持ちます。

個人的な話になりますが、今年の夏に久しぶりに蕁麻疹が出ました。
旅行先だったので、後で医者にこういうこういうものが出たんだと記録しておこうと思ってiphoneで撮影しましたが、いま見返してもぶつぶつの大小違った突起物が腕を覆っていて、「うっ」とくるような気持ち悪さがあります。

そこで話は戻って、
私は今まで整列について考えてきましたが、私の語る整列とは人間が作り出してきた規則であるものでした。
一方、その人々が恐怖を抱くような集合体というものは、自然物に起こりやすい。
整列に対する感情が不安感だとすると、集合体には規則性が見えなく、「繁茂する」ような恐怖感というか忍び寄る感じ?時には拒絶感との言えるような強烈な感情を抱くのではないかと考えて、

これは整列と集合は近い存在だけども、何か絶対的な違いがある。それはなんなのか。

それを自分の中で定義づけしきらないと、前に進まない気がして近頃は整列や集合について考えています。

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プロフィール

kaocino 美大4年 デザイン系
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